量子コンピューター時代の暗号入門――QKD・PQC・量子インターネットの違いをゼロから理解する

目次

  1. 量子コンピューターで、現在の暗号はどうなる?

  2. 最初に知っておきたい3つの技術

  3. 量子鍵配送「QKD」の仕組み

  4. QKDは、データそのものを暗号化する技術ではない

  5. 耐量子計算機暗号「PQC」とは

  6. QKDとPQCは、どちらを使うべき?

  7. QKDにも弱点がある

  8. 量子インターネットとは何か

  9. 日本ではどこまで進んでいる?

  10. 企業や行政が今から始めるべきこと

  11. 量子暗号通信のニュースを読む7つのポイント

  12. まとめ


量子コンピューターで、現在の暗号はどうなる?

私たちがインターネットを安全に使えるのは、「暗号」があるからです。

インターネットバンキング、電子メール、ネットショッピング、電子署名、行政手続きなどでは、RSA暗号や楕円曲線暗号といった公開鍵暗号が広く使われています。

これらの暗号は、普通のコンピューターでは解くのに非常に長い時間がかかる数学問題を利用しています。

ところが、将来、十分に大規模で誤り訂正能力を備えた量子コンピューターが完成すると、一部の公開鍵暗号が破られる可能性があります。

ただし、「量子コンピューターが完成した瞬間、インターネット上の暗号が全部破られる」という意味ではありません。

問題になるのは主に、現在広く利用されている公開鍵暗号です。また、実際に暗号を破れる規模の量子コンピューターがいつ完成するのかは、まだ確定していません。

それでも対策を急ぐ理由があります。

現在盗まれた暗号化データを保存しておき、将来、量子コンピューターが完成してから解読する攻撃が考えられるからです。これは「Harvest Now, Decrypt Later」、日本語では「今集めて、後で解読する」と呼ばれます。

医療情報、国家機密、研究データ、設計情報など、10年後や20年後にも秘密にしておく必要がある情報は、今から対策しなければなりません。NISTもこの長期保存リスクを説明しています


最初に知っておきたい3つの技術

量子通信に関する記事には、似た言葉がいくつも登場します。まず、次の3つを分けて考えることが大切です。

技術簡単にいうと主な目的現在の位置づけPQC量子コンピューターでも解きにくい新しい数学暗号幅広い情報システムを守る標準化され、移行が始まっているQKD光の量子的な性質を使って暗号鍵を共有する特に重要な通信回線を守る実証・限定導入・標準化が進行中量子インターネット量子状態や量子もつれをネットワークで共有する量子計算機や量子センサーを接続する研究開発段階

特に重要なのは、「PQC」と「QKD」は別の技術だということです。

PQCは、基本的に現在のコンピューターや通信ネットワーク上で動くソフトウェア型の対策です。

QKDは、光子を送受信するための専用装置や光回線を必要とする物理的な技術です。


量子鍵配送「QKD」の仕組み

QKDは「Quantum Key Distribution」の略で、日本語では「量子鍵配送」と呼ばれます。

ここでいう「鍵」とは、ドアを開ける鍵ではありません。データを暗号化したり、元に戻したりするための秘密の数字です。

QKDの仕組みを、手紙に例えてみましょう。

アリスさんが、非常に壊れやすい特殊な封筒を使って、ボブさんに暗号鍵の材料を送るとします。

途中でイブさんが封筒を開けて中身を確認すると、その行為によって封筒の状態が変化します。そのため、アリスさんとボブさんは、誰かが途中で情報を見た可能性に気づくことができます。

実際のQKDでは、光子などの量子的な状態を使います。

大まかな流れは次のとおりです。

  1. 送信者が、量子的な状態に情報を載せて送る

  2. 受信者が、その状態を測定する

  3. 送信者と受信者が、一部の測定結果を照合する

  4. 誤りが多ければ、盗聴や通信異常の可能性を疑う

  5. 問題がなければ、残った情報から共通の暗号鍵を作る

量子の状態は、測定すると変化する性質があります。そのため、盗聴の痕跡を統計的に検出できることがQKDの特徴です。

ただし、理論上の安全性と、現実の装置全体の安全性は同じではありません。検出器や光源、制御装置などに欠陥があれば、そこを攻撃される可能性があります。


QKDは、データそのものを暗号化する技術ではない

ここは非常に誤解されやすいところです。

QKDの主な役割は、秘密の暗号鍵を2地点間で作り、共有することです。メール、映像、医療データなどを直接暗号化する技術ではありません。

実際の通信は、次のような組み合わせで行われます。

QKDで暗号鍵を共有する

共有した鍵を使って、別の暗号方式でデータを暗号化する

暗号化されたデータを通常の通信回線で送る

NICTは、QKDで共有した鍵とワンタイムパッド暗号を組み合わせた量子暗号通信の研究を進めています。NICT「量子暗号・物理レイヤ暗号の研究開発」

また、QKDだけでは「通信相手が本当に本人か」を完全には確認できません。なりすましを防ぐための認証が別途必要です。

つまり、「QKDを導入すれば、それだけですべて安全になる」という説明は正確ではありません。


耐量子計算機暗号「PQC」とは

PQCは「Post-Quantum Cryptography」の略です。日本語では「耐量子計算機暗号」や「ポスト量子暗号」と呼ばれます。

PQCは量子通信装置を使いません。

量子コンピューターでも簡単には解けないと考えられている数学問題を使い、現在のコンピューター上で暗号処理を行います。

2024年8月、米国国立標準技術研究所のNISTは、最初の主要なPQC標準を正式に公開しました。

  • ML-KEM:安全に共通鍵を作るための方式

  • ML-DSA:電子署名のための方式

  • SLH-DSA:別の仕組みに基づく電子署名方式

NISTは、将来の標準を待つ必要はなく、これらの標準への移行を開始するよう呼びかけています。NIST「First 3 Finalized Post-Quantum Encryption Standards」

PQCの大きな利点は、既存のインターネットやクラウドサービス、パソコン、スマートフォンに組み込みやすいことです。

ただし、単純なソフトウェア更新だけで移行できるとは限りません。証明書、通信プロトコル、電子署名、ICカード、IoT機器など、暗号を利用する場所を調べ、順番に交換する必要があります。


QKDとPQCは、どちらを使うべき?

結論からいえば、一般的な企業や組織が最初に取り組むべきなのは、PQCへの移行準備です。

PQCは既存の通信環境に導入しやすく、インターネット全体で幅広く利用できるからです。

一方、QKDは次のような条件に向いています。

  • 防衛、外交、金融、医療、重要インフラなど、極めて重要な情報を扱う

  • 通信拠点がある程度固定されている

  • 専用装置や回線の費用を負担できる

  • 長期間にわたって高い機密性が必要

  • QKD装置や中継拠点を安全に運用できる

QKDとPQCは、必ずしも競争相手ではありません。

欧州電気通信標準化機構のETSIも、QKDをPQCの安全性を補完する技術として位置づけています。ETSI「Quantum Key Distribution」

非常に重要な通信では、従来暗号、PQC、QKDを組み合わせることで、一つの方式に問題が見つかっても、直ちに全体が破られない構成を目指せます。

ただし、複数の暗号方式を組み合わせれば自動的に安全になるわけではありません。鍵の管理方法や認証方法を含めた、システム全体の設計が必要です。


QKDにも弱点がある

QKDは「絶対に破られない暗号」と紹介されることがあります。しかし、これは説明を単純化しすぎています。

QKDには、次のような課題があります。

専用装置が必要

光子を送受信する装置や検出器などが必要です。通常のソフトウェア更新だけでは導入できません。

距離と通信損失の問題がある

光ファイバーの中を進む光は、距離が長くなるほど弱くなります。そのため、長距離化には中継拠点や衛星通信などの技術が必要です。

現在のQKDネットワークでは、鍵を一度取り出して次の区間へ渡す「信頼できる中継局」が使われることがあります。この場合、中継局そのものを物理的・組織的に守らなければなりません。

なりすまし対策が別に必要

QKDは鍵を共有する技術ですが、相手が本当に正しい相手なのかを確認する認証機能が別途必要です。

装置の欠陥が攻撃対象になる

理論上のプロトコルが安全でも、実際の光源や検出器、制御ソフトに弱点があれば攻撃される可能性があります。

通信妨害には弱い

攻撃者が量子信号を乱すと、QKDは異常を検出して鍵の生成を停止します。盗聴を防げても、通信を止める妨害攻撃までは防げません。

米国NSAも、専用設備、認証、中継局、実装上の安全性、サービス妨害などをQKDの課題として挙げています。これはQKDが無意味ということではなく、利用条件を慎重に見極める必要があるという指摘です。NSA「Quantum Key Distribution and Quantum Cryptography」


量子インターネットとは何か

量子インターネットは、現在のインターネットを速い通信網に置き換えるものではありません。

量子状態や「量子もつれ」を複数の地点で共有し、量子コンピューター、量子センサー、量子メモリーなどを接続する将来のネットワークです。

現在のインターネットでは、ルーターや中継器が信号を読み取り、増幅して次へ送ります。

しかし、未知の量子状態をそのまま複製することはできません。そのため、量子インターネットの長距離化には、量子メモリー、量子中継器、量子もつれの交換、誤り訂正など、新しい技術が必要です。

米国エネルギー省も、量子中継器や量子もつれを利用した複数区間ネットワークを、量子インターネットに必要な研究課題として挙げています。米国エネルギー省「Quantum Networks」

つまり、次のように整理できます。

  • QKD:量子を利用して暗号鍵を共有する

  • PQC:量子コンピューターでも解きにくい数学暗号

  • 量子インターネット:量子情報そのものをネットワークで扱う

QKDネットワークがそのまま完成形の量子インターネットになるわけではありません。


日本ではどこまで進んでいる?

日本では、NICTを中心にQKDネットワークの研究開発と実証が進められています。

代表例が「Tokyo QKD Network」です。

NICTによると、東京100キロメートル圏の量子暗号ネットワークが2010年から稼働しており、企業や大学、研究機関と連携した技術実証に使われています。NICT「量子暗号・物理レイヤ暗号の研究開発」

また、Tokyo QKD Networkなどの設備は、共同研究を行う産業界や大学などが利用できるオープンテストベッドとして整備されています。NICT量子ICT協創センター「オープンテストベッド」

標準化も進んでいます。NICT、NEC、東芝などの研究成果を取り入れたQKDネットワークの基本構成は、2019年にITU-T勧告Y.3800として承認されました。NICT「国際標準化機関ITU-Tで初の量子鍵配送ネットワークに係る勧告が成立」

政府も量子通信を含む量子技術を、研究だけでなく産業化や社会実装につなげる方針を示しています。内閣府「量子技術イノベーション」

ただし、実証ネットワークと、誰もが利用できる全国的な商用サービスは区別して考える必要があります。


企業や行政が今から始めるべきこと

すべての組織が、すぐにQKD装置を購入する必要はありません。

先に行うべきなのは、現在どこで暗号を使っているかを把握することです。

1.暗号の棚卸しをする

次のような場所で、どの暗号方式を使用しているか確認します。

  • Webサイトと社内システム

  • VPNやリモートアクセス

  • 電子メール

  • 電子署名と電子証明書

  • クラウドサービス

  • バックアップ

  • IoT・工場設備

  • ICカードや社員証

  • 長期間使用する組み込み機器

2.情報を「秘密にする期間」で分類する

数か月だけ秘密にすればよい情報と、20年間秘密にする必要がある情報では、優先順位が異なります。

長期間保存する医療情報、研究成果、設計情報、個人情報、外交・安全保障情報などを先に確認します。

3.取引先にPQC対応計画を聞く

自社だけで暗号を交換することはできません。クラウド事業者、ネットワーク事業者、機器メーカーなどに、PQC対応の予定を確認します。

4.暗号を交換しやすい設計にする

将来、別の暗号方式に変更できる性質を「クリプト・アジリティ」と呼びます。

特定の暗号をシステムの奥深くに固定してしまうと、交換に大きな費用と時間がかかります。

5.優先度の高いシステムからPQCを試す

本番環境へ一斉に導入するのではなく、通信速度、鍵や署名のサイズ、既存機器との互換性などを検証します。

英国NCSCは、大規模組織向けの目安として、2028年までの棚卸しと初期計画、2031年までの重要システムの移行、2035年までの全体移行を示しています。日本にそのまま適用される期限ではありませんが、移行には長い時間がかかることを示す参考になります。英国NCSC「Timelines for migration to post-quantum cryptography」


量子暗号通信のニュースを読む7つのポイント

「量子暗号に成功」「世界初の量子通信」といったニュースを見たときは、次の点を確認すると、技術の実態が分かりやすくなります。

  1. QKD、PQC、量子インターネットのどれか

  2. 暗号鍵を配ったのか、データを暗号化して送ったのか

  3. 研究室内の実験か、実際の通信網を使った実証か

  4. 通信距離だけでなく、秘密鍵の生成速度はどの程度か

  5. 途中に「信頼できる中継局」があるか

  6. 専用回線、既存回線、衛星のどれを使ったか

  7. 国際標準への準拠や、装置の安全性評価が行われているか

特に「通信距離が長い」という数字だけで性能を判断するのは危険です。

距離を延ばすほど鍵の生成速度が低下する場合があります。また、中継局を追加して距離を延ばしたのか、量子状態を中継したのかによって、技術的な意味は大きく異なります。


まとめ

量子コンピューター時代のセキュリティ対策には、魔法のような一つの解決策があるわけではありません。

重要なポイントは、次の3つです。

  • PQCは、幅広い情報システムを守るための中心的な対策

  • QKDは、専用設備を利用して特に重要な通信を守る選択肢

  • 量子インターネットは、量子情報を扱う将来のネットワーク

一般的な企業や行政機関が今すぐ始めるべきことは、QKD装置の導入ではありません。

まず、どこで暗号を使用しているかを調べ、長期間守る必要がある情報を見つけ、PQCへ移行できる準備を進めることです。

QKDは、高い費用や運用上の制約を理解したうえで、特に機密性の高い固定拠点間通信などに検討する技術です。

未来の量子技術を待つのではなく、現在の暗号を把握し、必要に応じて交換できるようにしておくこと。それが、量子コンピューター時代に向けた最も現実的な第一歩です。


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